はじめに
青森ねぶた祭は、毎年8月2日から7日にかけて青森市で開催される、日本を代表する夏祭りのひとつです。巨大な人形灯籠「ねぶた」が夜の街を練り歩き、「ラッセラー」の掛け声とともに跳人(はねと)が乱舞する光景は、国内外から訪れる延べ200万人以上の観光客を魅了し続けています。1980年には国の重要無形民俗文化財に指定され、東北三大祭りのひとつとして広く知られています。本記事では、この祭りがどのように生まれ、発展してきたのかを、史料に基づきながら紐解いていきます。
起源と由来
青森ねぶた祭の起源は、実のところ定かではありません。通説として有力なのは、七夕祭りの灯籠流しが変形したという説です。奈良時代(710年~794年)に中国から渡来した七夕の風習と、古来から津軽地方にあった精霊送りや眠り流しの習俗が融合し、紙と竹、ローソクの普及とともに灯籠となり、やがて現在の人形ねぶたへと発展したと考えられています。
「ねぶた」という名称は、「眠り流し」の「眠り(ねむり)」が転訛したものとされています。農作業の忙しい夏、睡魔を払い穢れを川や海に流す禊の行事として、7月7日の夜に灯籠を流して無病息災を祈りました。これが「ねぶた流し」と呼ばれ、現在の青森ねぶたの海上運行にその名残が見られます。
文献上の記録
文献上、「ねぶた」に関する最古の確実な記録は、享保年間(1716年~1736年)頃のものです。この時期に「ネブタ」の語句が文献に登場するようになります。
現在のような灯籠を持ち歩く行事の記録として知られているのは、安永年間(1772年~1781年)頃のものです。この頃、油川町付近で弘前のねぷた祭を真似て灯籠を持ち歩き踊ったという記録が残されています。また、安永年間の記録には「青森では男女たび素足にカネをたたいてはやしながら、衣裳を着飾って踊っていた」という様子も伝えられており、当時から踊りを伴う賑やかな行事であったことがうかがえます。
なお、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際にねぶたを用いたという伝承もありますが、これは学術的には裏付けが困難とされています。この伝承に基づき、かつては最優秀賞に「田村麿賞」の名称が用いられていましたが、1995年からは「ねぶた大賞」に改称されています。
江戸時代から明治時代へ
江戸時代、ねぶたは庶民の娯楽として次第に大型化・華美化していきました。藩や行政側はしばしば禁止令を出しましたが、人々のねぶたへの情熱は衰えることなく、禁令を破って祭りが催行されることもあったと伝えられています。弘前藩の日記『柿崎日記』には、藩主が「眠り流し」を鑑賞したという記録も残っています。
明治時代の変革
明治時代に入ると、青森県から改めてねぶた禁止令が出されました。行政側の理由は、人形燈籠を持ち出して市中を徘徊するのは「野蛮」な風習であり、大勢が集まって喧嘩沙汰になるのは迷惑だというものでした。
この禁止令は10年後に解除され、明治15年(1882年)には「佞武多取締規則」が定められました。これにより、戸長(のちの町長)の許可を得た上での警察署への届出が義務となり、大きさにも制限がかけられました。高さ約5.5メートル(一丈八尺)、幅約4メートル(一丈三尺)以内という規制は、治安維持と火災予防を主な目的とした行政指導によるものでした。
さらに明治30年代に入ると、青森電灯会社の開業(明治30年)により市中に電線が張り巡らされるようになり、ねぶたの大型化は物理的にも制約を受けることとなりました。こうした制限の中で、ねぶた師たちは限られた空間の中で最大限の表現を追求するようになり、それが現在の精緻で芸術性の高いねぶたの原型となっていきました。
戦時中の中断と復興
昭和に入り、日中戦争の激化に伴い昭和12年(1937年)にねぶたは禁止されました。しかし、戦況が悪化した昭和19年(1944年)には戦意高揚のため一時的に解禁され、「桃太郎のルーズヴェルト退治」(製作:北川金三郎)といった時局を反映したねぶたが制作されました。
終戦後の昭和21年(1946年)、ねぶた祭は復活を果たします。当初は「青森港まつり(後に青森みなと祭)」の一環として開催され、ねぶたの運行を含む様々な催しが行われる形でした。その後、1979年(昭和54年)に現在の「青森ねぶた祭」という名称に変更され、港まつりから独立した形式となりました。翌1980年には国の重要無形民俗文化財に指定されています。
戦後の大型化と近代化
戦後のねぶた復興の中心となったのは、後に初代ねぶた名人となる北川金三郎氏でした。当時60歳を過ぎていた金三郎は「北川のジサマ」と呼ばれ、息子の啓三(後の第2代名人、通称「北川のオンチャマ」)とともに、ねぶたの構造に革命をもたらしました。
骨組みを従来の竹から針金に変え、内部照明を蝋燭から電球・蛍光灯に変更したのです。この技術革新により、ねぶたはより大型化・複雑化し、現在のような迫力ある姿へと進化していきました。
金三郎は青森ねぶたの「中興の祖」と称され、昭和32年(1957年)には最高傑作といわれる「勧進帳」(東北電力)を制作。昭和33年(1958年)に初めて「ねぶた名人」の称号を与えられ、昭和35年(1960年)に他界しました。
ねぶた師の系譜
専門のねぶた制作者は「ねぶた師」と呼ばれ、その中でも極めて高い技術でねぶたを制作し続け、祭りの振興に貢献してきた者には「ねぶた名人」の称号が贈られています。現在までに7人がねぶた名人に認定されています。
初代 北川金三郎氏(1958年認定): 青森ねぶたの中興の祖。竹から針金への骨組み変更、蛍光灯照明の導入など、近代ねぶたの基礎を築いた
第2代 北川啓三氏(1980年認定): 金三郎の次男。父とともに技術革新を推進し、横に広い迫力あるねぶたを考案。第1回田村麿賞(1962年)受賞者
第3代 佐藤伝蔵氏(1988年認定): 初代・2代の技術を融合させ、表現の幅を広げた。構図や中間色の使い方に革新をもたらした
第4代 鹿内一生氏(1990年認定): 昭和44年から3年連続で田村麿賞を獲得。「我生会」で多くの弟子を育成
第5代 千葉作龍氏(2012年認定): 45年間で大型ねぶた141台を制作。ワ・ラッセの展示にも貢献
第6代 北村隆氏(2017年認定): 北川啓三の弟子。田村麿賞2回、ねぶた大賞10回など多数受賞。大英博物館でのねぶた制作も担当
第7代 竹浪比呂央氏(2023年認定): 千葉作龍の弟子。現役ねぶた師として活躍中
2024年現在、16人のねぶた師が大型ねぶたの制作に携わっており、伝統の技術は脈々と受け継がれています。
現代のねぶた祭
現在の青森ねぶた祭は、8月2日から7日までの6日間開催されます。2日・3日は子どもねぶたと大型ねぶたの夜間運行、4日から6日は大型ねぶたのみの夜間運行、そして最終日の7日は昼間に大型ねぶたが運行した後、夜には受賞ねぶたが船に乗って陸奥湾を進む海上運行が行われ、花火とともに祭りのフィナーレを飾ります。
大型ねぶたの大きさは、現在は幅約9メートル、奥行き約7メートル、高さ約5メートル以内と定められています。歌舞伎や伝説、神話などを題材にした勇壮な武者絵が多く、内部から照らされる光により、夜の街に幻想的な光景が広がります。
ねぶたを体験できる施設
祭り期間外でもねぶたの魅力を体験できる施設として、青森市文化観光交流施設「ねぶたの家 ワ・ラッセ」があります。JR青森駅から徒歩1分の好立地にあるこの施設では、実際に祭りで使用された大型ねぶたが常設展示されているほか、ねぶたの歴史や制作技術について学ぶことができます。
世界へ広がるねぶた
青森ねぶたは国内にとどまらず、海外でも高い評価を受けています。2001年にはイギリスの大英博物館で北村隆氏がねぶたを制作・展示し、「世界最高のペーパークラフト」として紹介されました。また、アメリカ・ロサンゼルスの「二世週日本祭」への参加(2007年、2015年)など、世界各地でその魅力を発信しています。
おわりに
享保年間の文献記録から約300年、青森ねぶた祭は時代の波に揉まれながらも、その火を絶やすことなく受け継がれてきました。禁止令、戦時中の中断、そして戦後の復興と発展。ねぶた師たちの創意工夫と市民の情熱が、この祭りを日本を代表する文化遺産へと育て上げました。 毎年8月、青森の夜を彩る巨大な灯籠と「ラッセラー」の掛け声は、先人たちから受け継いだ伝統と、それを未来へとつなぐ人々の想いの結晶です。ぜひ一度、この壮大な祭りを体験してみてください。
